微妙な知り合いであるウェブライターがオールナイトのライブイベントに出たときの映像を見せられ、愉しそうでよいなと思っている。集まった人がゆるくセッションなどをするイベントらしく、ステージはフロアの一角に青い照明が当たっただけの簡素なものだが、彼はドラムを叩いており、意外に上手い。手首のスナップが効いている。文章を書く人はインドアなイメージがあるが、こんな趣味もあったんだなと羨ましく思う。彼の友人らしき同業者も招かれているが、この人はその場に馴染めないらしく、彼が演奏している周囲を猫背でぎこちなくうろうろしている。その様子にシンパシーを抱く。
何かの学会に出席した。大通りを隔てて会場の向かい側にいると、大きな歩道橋を、同じ学会に出席していた二人の女性が歩いている。一人の女性は私と同年代頃、どこかだらしない身なりで、困憊した様子で隣の女性に身体を預けており、隣の女性は一回りほど若くきちんとした服装をしている。私と同年代の女性は作家で、作品を書くための取材で学会に来る必要があったらしいが、社会性がなく質問などをできないため編集者である年下の女性が付き添っているようだ。編集者ってそんな業務もあるんだなあと思う。私もコミュニケーションが苦手だが、質問などは或る程度できるのでまだマシだろうか、と考える。
私は目の前の大通りを横断しようとする。すると母が、「ピアスを落としてるで」というので、歩道に戻らざるをえなくなる。耳を触るとたしかに耳の裏にキャッチ(黒い変な材質で変な形をしている)だけが残っており、留めていた前の部分が道路に落ちている。緑の丸い石が針の部分を上にして落ちており、母が、「踏んだら危ない、危ない」と言う。大通りのはずだが昔の実家の二階のようでもあり母は着物などを広げて法事の用意をしているようでもある。落ちたピアスを拾おうとすると、今落としたもの以外にも、昔に買った壊れたピアスが一緒に落ちている。小さなピンクの花と葉の細工がレジンで籠められたデザインの、針の折れてしまったピアスを、壊れているしもう要らないのだけれどなあと思いながら拾う(※これは実際あったもので穴を開けた頃に当時富小路三条下ルにあった文化屋雑貨店で安くで買った。ほどなく壊れたので夢に見るまで存在を忘れていた)。レジン工芸って私みたいに不器用でもできるのだろうか、と考えている。母が、私の診断について何か言う。
友人(作家)が風邪を引いたようなので見舞いに行く。漫画のような古典的な布団で、古典的な氷嚢を頭に載せて寝ている。何か資格を取るために大学に編入するという話をしている。枕元にいる友人(寝ているのと同一人物だがなぜかこの場面では見舞客のようになっている)が「~やから私は無理やわあ」と残念そうに言う。何か受験条件が足りないらしい。私は大学編入は簡単にできるだろうか、と考える。
アマチュアが短い小説作品を投稿するようなSNSを見ている。皆、作品にハッシュタグをつけて同じ趣味の者同士でつながるのだが、赤べこの絵文字をハッシュタグにしている一団があり、「地域が違えば赤べこになるんだな、こういうところに郷土色が出るんだな」と思う。また「#補陀洛」というハッシュタグがある。ハッシュタグのついた作品を見てみると、「補陀洛」はオタクの女性の間で流行っている俗語らしく、或る種の関係性を表す用語らしい。作品はどれも、実在する二人の青年を題材にした二次創作(?)らしく、才能はあるが社会性がなく生きづらい青年Aを、快活な青年Bが全面的にケアして包み込む関係性が描かれており、そうした全面的包摂の関係を「補陀洛」と呼ぶようだ。
或る作品では、日の落ちかけた湖か海のほとりで、BがAを小さな小舟の底に横たえる様子が描かれている。腺病質を思わせるAの身体は、小舟の底にぴったりと収まり、Bはまるで埋葬のようにその舟を流そうとしている。その行為自体も「補陀洛」と呼ぶようだ。Bの目元は暗くて見えないが、慈しみに満ちていることが分かる。私はその作品を読んでいたはずだが、その場面を文章で描写しているようでもあり、かつ、Aの位置に成り代わっているようでもあり、両手を胸の下に重ね、あつらえたようにこの身体がぴったり収まる棺桶のような小舟の底に、静かに横たわっている。
私を埋葬した舟が枯れ葉のように湖面をたゆたい始める。
※メモ
・「社会性のない人とそれを受容する人」のコンビが複数出てくる
・夢の最後は、「自分が読んでいるのか書いているのか分からない」「自分が書いているのか書かれているのか分からない」というパターンで終わることが多いが、その複合パターンだった。