餅ドリーミン

夢日記です

「補陀洛」がオタク女子の間で流行っている夢

微妙な知り合いであるウェブライターがオールナイトのライブイベントに出たときの映像を見せられ、愉しそうでよいなと思っている。集まった人がゆるくセッションなどをするイベントらしく、ステージはフロアの一角に青い照明が当たっただけの簡素なものだが、彼はドラムを叩いており、意外に上手い。手首のスナップが効いている。文章を書く人はインドアなイメージがあるが、こんな趣味もあったんだなと羨ましく思う。彼の友人らしき同業者も招かれているが、この人はその場に馴染めないらしく、彼が演奏している周囲を猫背でぎこちなくうろうろしている。その様子にシンパシーを抱く。

 

何かの学会に出席した。大通りを隔てて会場の向かい側にいると、大きな歩道橋を、同じ学会に出席していた二人の女性が歩いている。一人の女性は私と同年代頃、どこかだらしない身なりで、困憊した様子で隣の女性に身体を預けており、隣の女性は一回りほど若くきちんとした服装をしている。私と同年代の女性は作家で、作品を書くための取材で学会に来る必要があったらしいが、社会性がなく質問などをできないため編集者である年下の女性が付き添っているようだ。編集者ってそんな業務もあるんだなあと思う。私もコミュニケーションが苦手だが、質問などは或る程度できるのでまだマシだろうか、と考える。

 

私は目の前の大通りを横断しようとする。すると母が、「ピアスを落としてるで」というので、歩道に戻らざるをえなくなる。耳を触るとたしかに耳の裏にキャッチ(黒い変な材質で変な形をしている)だけが残っており、留めていた前の部分が道路に落ちている。緑の丸い石が針の部分を上にして落ちており、母が、「踏んだら危ない、危ない」と言う。大通りのはずだが昔の実家の二階のようでもあり母は着物などを広げて法事の用意をしているようでもある。落ちたピアスを拾おうとすると、今落としたもの以外にも、昔に買った壊れたピアスが一緒に落ちている。小さなピンクの花と葉の細工がレジンで籠められたデザインの、針の折れてしまったピアスを、壊れているしもう要らないのだけれどなあと思いながら拾う(※これは実際あったもので穴を開けた頃に当時富小路三条下ルにあった文化屋雑貨店で安くで買った。ほどなく壊れたので夢に見るまで存在を忘れていた)。レジン工芸って私みたいに不器用でもできるのだろうか、と考えている。母が、私の診断について何か言う。

 

友人(作家)が風邪を引いたようなので見舞いに行く。漫画のような古典的な布団で、古典的な氷嚢を頭に載せて寝ている。何か資格を取るために大学に編入するという話をしている。枕元にいる友人(寝ているのと同一人物だがなぜかこの場面では見舞客のようになっている)が「~やから私は無理やわあ」と残念そうに言う。何か受験条件が足りないらしい。私は大学編入は簡単にできるだろうか、と考える。

 

マチュアが短い小説作品を投稿するようなSNSを見ている。皆、作品にハッシュタグをつけて同じ趣味の者同士でつながるのだが、赤べこの絵文字をハッシュタグにしている一団があり、「地域が違えば赤べこになるんだな、こういうところに郷土色が出るんだな」と思う。また「#補陀洛」というハッシュタグがある。ハッシュタグのついた作品を見てみると、「補陀洛」はオタクの女性の間で流行っている俗語らしく、或る種の関係性を表す用語らしい。作品はどれも、実在する二人の青年を題材にした二次創作(?)らしく、才能はあるが社会性がなく生きづらい青年Aを、快活な青年Bが全面的にケアして包み込む関係性が描かれており、そうした全面的包摂の関係を「補陀洛」と呼ぶようだ。

或る作品では、日の落ちかけた湖か海のほとりで、BがAを小さな小舟の底に横たえる様子が描かれている。腺病質を思わせるAの身体は、小舟の底にぴったりと収まり、Bはまるで埋葬のようにその舟を流そうとしている。その行為自体も「補陀洛」と呼ぶようだ。Bの目元は暗くて見えないが、慈しみに満ちていることが分かる。私はその作品を読んでいたはずだが、その場面を文章で描写しているようでもあり、かつ、Aの位置に成り代わっているようでもあり、両手を胸の下に重ね、あつらえたようにこの身体がぴったり収まる棺桶のような小舟の底に、静かに横たわっている。

私を埋葬した舟が枯れ葉のように湖面をたゆたい始める。

 

 

※メモ

・「社会性のない人とそれを受容する人」のコンビが複数出てくる

・夢の最後は、「自分が読んでいるのか書いているのか分からない」「自分が書いているのか書かれているのか分からない」というパターンで終わることが多いが、その複合パターンだった。

「大」の代わりに「目」と書かれた山に囲まれた街の絵を描かねばと思う夢

何かの〆切があるらしく、どこかの駅にいる。

駅前は、レトロな温泉街になっている。そこで誰かと立ち話をしている。私は、「人間にとって(人間を包むのに?)ちょうどよい大きさのものは山である」という話をしている。「400mくらいの伊根山のような山がちょうどよい」と言い、大文字山もそれくらいかな?と考える。(註:起きてから調べると伊根山という山は無い、大文字≒如意ヶ嶽はたしかに400m台らしい。)

大文字山の『大』のかわりに『目』が書いてある山に囲まれた街を想像してください。五山全部『目』でいい、いや、『👁(※環境依存:目の絵文字)』の方がいいか? どっちがいいかな~?」と説明をしながら、絵を描いており、頭のどこかで「(起きたらこの絵を描かねば)」と思っている。大文字の背後には、もくもくとした黒い樹々を蓄え切り立った複雑な崖をもつ高山が威容を誇っている。

※実際に起きてすぐ絵にしたもの。夢よりも画力が低い。

 

f:id:kamemochi:20241006133233j:image
f:id:kamemochi:20241006133239j:image
f:id:kamemochi:20241006133236j:image

 

観光地は、山に向けて急な坂道になっており、坂道の途中の土産屋があるところでY字路になっている。少し迷って、右の道をゆく。道の途中で、約束をしていたのか、M君と出会い喋りながら歩く。M君は現在は大学教員兼若手研究者として活躍しているが、草の根の活動もしたいということで、若い人を対象にした小さな古本屋を仲間と営んでいる(※実際は違う)。板敷になった小屋のようなその店に入る。昔一緒に勉強会をしていた友人らがいるようだ。興味深い古本がたくさんある。書き込みがたくさん入った古い本を手にとる。昔作った資料がファイリングされたものがある。店番のバイトを募集しているらしく、来年度、火曜日だけなら働けないだろうか?と考える。昔の友人の後輩に、何かの入門書はどれがいいかというようなことを訊かれ、知っている分野だったので、アドバイスをする。

 

Yahoo!知恵袋のようなサイトがあり、そこで知り合い(といってもSNSでだけつながっている程度のごく薄い知人・同年代の女性)が質問をしている。「昨年、ユニクロのダウンコートは7990円か8990円でしたが今年は何円ですか?」という質問で、わざわざここで訊かなくても調べたらすぐに分かるだろうにと思いながらも、答えにいく。答えにいくには、その人がいるところまで階段を上らねばならないが、白い壁の中をらせん階段が続いておりその人は10階にいる。10階に行くと、柵のない踊り場のようなところにその女性が立っており、挨拶をする。解答するには、その踊り場のようなところからプールに飛び込まねばならない。建物は吹き抜けになっており、4階あたりまでが水を張られたプールになっている。こんなところに飛び込むのは絶対にいやだ。飛び込んでも質問の回答権が得られるだけで何もいいことはないし、そもそも私は今年のダウンコートの値段を知らない。「見に来ただけで、答えにきたのではないから、飛び込みませんよ」と私は言い、しばらく知人と喋るが、柵もないし、うっかり足を滑らせたら落ちるなあ……と思っている。足を滑らせたら後悔しながら水面に着くまで落ちていくのだろうか、それとも、途中で意識を失うだろうか、と考える。

 

妹か従妹(若い頃の姿)と同い年くらいの女の子が何人かうちに泊まりにきており、電車の出る時間に間に合うように着替えなくてはならない。

京阪三条駅から終電が出てしまう。ホームが変な形で、たくさんベンチがあり、そこに中年男性たちが座っており、終電の時間が普段と違うようである。私は誰かに「私は三条駅には詳しいから」と言っている。

 

Y字路の右側の坂道をずっと登ってゆくと、突き当たりに墓地がある。母方親族の墓所である。墓地の背後には、大きな山が聳えている(東山のはずだが京都には無い風景)。魁偉な山脈の一部が土砂崩れの痕跡で削れており、凄い風景である。墓地の手前では工事が行われており、何か事情があるのか墓が取り壊されているのだが、作業員の他に役人らしき人々もおりものものしく、たくさんの瓦礫が積み上げられている。同じ場所に、谷崎潤一郎の墓がある。(※実際の谷崎の墓には、20年ほど前に行った)

 

 

 

 

 

 

子犬が流れていく夢

今住んでいる家の近くの商店街を歩いているはずだが、旅先のようにもなっており、商店街が二手に分かれた片方の道は海に面している。海と商店街の間に木の柵があり、石畳のごく小さな広場があり、そこで、少し昔の映画に出てきそうな、蓮っ葉な若い女が煙草を吸っている。そこから駅のほうは店が建て込んでいるがどこも古くて汚く、狭い物置にゴミのような道具が詰め込まれている。私は、空いた時間で京都に帰るか、デザートをコンビニで買って家に戻るか、悩んでいる。

京都に来ているらしく、実家に続く道を歩いているが、道は水路になっており(※実際は無い)、そこで子犬を散歩させている。周囲に、幼馴染か家族がおり、犬はうちの犬らしいが知らない犬である。ダックスのような形でうちの犬の子犬時代のようでもあるが、黒く汚れたチワワのようでもある。犬は水路に落ちそうで、私も一緒にいる人も「気をつけや」と言い合っていたのに、案の定水路に落ちてしまった。いったん、ほうり投げるように犬(チワワ)を水路から引き離したはずであったが、やはり犬は水の流れに吸い込まれていってしまった。もう少し流されると水路は暗渠になって見えなくなってしまうので、今飛び込んで救出すれば間に合う。暗渠は再びもう少し北で地上に出るから、最悪そこで待てば流れてきた犬を受け止められるとは思うが、できれば姿が見えなくなる前に助けたい。分かっているのに、なぜか私は水路に飛び込むタイミングが遅れてしまう。水路は汚れてはいるがふくらはぎくらいの水位であり、飛び込むのに躊躇うほどの水位ではない。なのに、ためらっているうちに、犬は流されてゆき見えなくなる。

 

※ 犬を飼っているとき、「犬がトイレに流されようとししっぽを捕まえて引き留める」「犬が流されても淀川まで行けば大丈夫だ、と思う(※水に流されたものはすべて淀川に行けば拾えると思っていた子供の頃の記憶による)」という夢を見たことがある。それと同じ構造の夢だと思う。

※ 最近、犬を亡くした友人が新たに子犬を飼い始めた。その幸せそうな様子を見て、「こんなに幸せなうきうきした思いは、犬がいなくなってから一度もないなあ」としみじみ思った。しかしもう一度犬を飼うとなると自分は無理だなと思った。

 

 

 

 

ピンクが好きな友人の子と両親が離婚していろいろ捨てる夢

友人の娘さん(4、5歳~小学校低学年くらい、Mさんの子のようでもありTさんの子のようでもある)と遊んでいる。娘さんはピンクが好きだという。ピンクのズボンを穿いている。私は娘さんと、「ピンクのものを探しに行こう」と言い、部屋から出る。部屋は昔の実家の部屋のようで、土間に降りると今の実家と昔の実家の店スペースが混じったような感じになっている。娘さんはパープルのカーディガンのような服を着ており、それも好きらしく、「やっぱりそうなんだ、こういう色は私の子どもの頃はなかった、最近の『ゆめかわ』の配色だね」と言っている。ミントグリーンに黒いドットが幾何学文様のようにぐるっと取り巻いている、円柱にスカートのようなものがついた形のオブジェがあり、「私はこの色が好き」というようなことを言っている。ピンクのグッズを求め、土間の奥に行く。小さな冷蔵庫の中を一緒に覗く(※土間の奥は店時代には倉庫として使っておりその入口に実際小さな冷蔵庫を置いていた)。冷蔵庫の横にパステルピンクの筒のようなものが引っ掛けられている。

どこかに出かけるらしく、娘さんは浴衣に着替えさせてもらわねばならない。私は、小さな女の子の浴衣の帯の結び方が好きだ、という話をしているようである。われわれのいるところは店のようであるが車庫のようでもあり(※実際に、店だったスペースを現在は車庫にしている)、われわれは車に乗り込む。ピンクの筒のようなものは妹の傘だったことが分かり、友人家族がどこかに出かけるという話が、妹と出かけるという話になっている。

 

私は母と車に乗っている。私が運転しているようでもあり(※実際は私は運転できない)、父の運転する車に乗っているようでもある。ただし両親は実際の両親ではなく、年齢も20代後半~30代くらいの若い男女である。父はマッシュカットにした気の弱そうな男性であり、母は長い髪をソバージュにしてバブル時代の女性という感じ。二人は離婚をするらしい。車は木屋町を走り、団栗橋の西側あたりの駐車場に止まる。そこで二人は別れるようだ。私は母についていくことになっている。母は、婚家で使っていた食器や布団をすべて捨てたか焼いたかしたらしい。事務的な手続きについて言い残して車のドアを開け、母と私は父を残して出ていく。父は無言で運転席で俯いており、この離婚は父に理由があったはずではあるが、気弱そうなその様子に思わず気の毒になってしまう。戸を閉めるときにふと、車の中のグローブボックスに子供の頃に描いた落書きの紙を残していた、ということに気づく。母は持って行かなくていいんだろうか、と思うが、すべてのものを残して持っていくことはできないよな、と思い直す。ひっこしというのは、そういうものを捨ててゆくよい機会なのかもしれない。実際に、家具や食器などがんばって買ったものも全部捨てていくことになったのだから。

私は車の横で、「人間の一生なんてそんなもんや」というようなことを思う。「子供の頃は、将来何か大きなことをできると思ってるけど、実際はこうやって何かを得ては捨ててするだけなんや」と思う。父の様子が気になるが、母のサポートをしなくてはならないため、一緒に鴨川の橋を渡る。川端通りは実際の様子とは少し違い立体交差のようになっている。これからどうするのだろうか、母はとりあえずはいったん実家で暮らすことになるのだろう、と思い、母は頼れる実家があってこういうときよかったなと思う。私が父のことを気にしていると、母が鴨川の上で「私(の気持ち)にも寄り添ってよ」と言って腕を引き寄せてくる。それまでずっと母がかわいそうだと思い自分は母をサポートするんだと思っていたが、急に、息苦しいようなうっとうしいような気持ちをふと感じる。母が「不用品は明日三条の役所の前に捨てにいく」と言っている。役所の前に大型家具などをもっていくと捨ててくれるらしい。いつのまにかそんなサービスがあったんだ、と思う。でも、もう両親も年だから(※実際の両親とは違い2、30代のはずだが一方で「年老いた両親」という感覚もある)、今度は荷造りをするのは主に私になるのだろう、と思う。夏の荷造りは大変だぞ、と思うが、ダイエットになると思ってがんばろうとも思う。

 

私は初老の男性の予備校講師になっており、50人ほどの予備校生の前で日本史を講義している。いかにも昔の浪人生という感じの男子生徒が多い。夏期講習で、一回で長い範囲を講義してしまわないといけないらしく、少々負担に感じている。だが人気講師のようで、生徒たちは盛り上がっている。この講義はその後本として出版する予定らしい。生徒たちにプリントを配る。プリントは手作りであるが、以前に鉛筆で書いた下書きを消した消し痕がそのままコピーされており、その上から生徒たちが何かを書き込むようになっており、だがそれがこの授業の工夫でもある。文字には蛍光ピンクのマーカーでラインがひかれている。私は、「本が売れたら君たちのために~~してあげますよ」というようなことを言い、生徒たちがウワーッと盛り上がる。

旧友たちと待ち合わせするがNが来ない夢

京都で何かの仕事をしている。現在のようでもあれば、20代の頃のようでもあり、中学生くらいのようでもある。

 

近所で、友人らと集まる機会がある。妹の作業所のことか誰かの結婚祝いのことが関係がある感じもする。何かの祝いを家族に持たされ、MTさんの家へ行く。MTさんの家は和風の立派な門構えのようでもあり、西洋のメルヘンのおうちのようでもあり、玄関のところに可愛い小花柄の布が垂らされている。私は京都の北のほうで仕事を終えてそこへ向かっているが、時間に間に合わないようで焦っている。

 

そこで旧友らと会をしたようだが、その後翌日もNとMTさんと会う約束をする。梅田で待ち合わせということになっており、私は昼前に梅田へ向かい、既に着いていたMTさんの車に乗る。車窓からいろんな店の暖簾が見える。梅田だが下鴨か出町柳のようでもある。連続して二日間同じメンバーで遊ぶなんて子供の頃以来だとわくわくし、いいのかなと思う(※実際に小中学生の頃によく遊んでいたメンバーであり、最近この二人と一緒に塾をサボった思い出についてブログに書いたこともあり、その頃のことを思い出す機会が多かった)。MTさんは車を梅田の少し南(堂島?)の道路の端に停めており、Nを待つが、Nはなかなか来ない。

 

私は今日?明日?着る服のことを考えている。しばらく着ていないEmilyのピンクのブラウスが、そういえばちょうどいい季節だからあれにしよう、と思っている(実在の服だが実際は冬服)。それにフランスで買った、薄いグリーンとピンクが片方ずつのマカロンの形のピアスがちょうど合うなと思う(実際はないが、かつて似た色合いのピアスを持っておりそれをどこかで無くしたことを昔の写真を見てこの間思い出した)。そのピアスをフランスで買ってきたときに、大伯母のアパートで妹に見せたことを思い出す(大伯母のアパートは子供の頃に一度だけ行ったはずだが、その記憶を何度か文章にしているうちに夢or創作だったか現実だったか分からなくなってしまった)。

 

Nが来ないので、電話をすると、今日の約束を忘れていたことが分かる。これも子供の頃以来だ(Nは子どもの頃よく約束を忘れたり遅刻しすぎたりしてすっぽかすことがあったが大人になってからちゃんとした人になった)。われわれはニヤニヤして「流石Nやな」などと言い合う。今から出ると言っているので20分はかかる(京都から来るという設定になっているので実際は1時間ほどかかるが自転車で20分ということになっている)。私は尿を我慢していたことを思いだし、「Nが20分かかるんやったらトイレを探そう」とMTさんに言い、MTさんが車を動かしてくれる。「フェスティバルホールやったらもうちょっとこっちやんな」とMTさんが言う(※MTさんに中学生のときにブルーハーツを薦め大人になってから大阪のクロマニヨンズのチケットを譲ろうとしたが都合が合わなかったということがあった、たしかフェスティバルホールのチケットだったと思う)。「でもフェスティバルホール(でトイレ借りるの)はちょっと違うな」とMTさんが言い、私は「うちも梅田はよう分からへんねん」と答える。

エッセイストの父の夢/水色の蟹とミミズにたかられる夢

夢1

妹と、妹の車で深夜の喫茶店に行く。私は、「この道は自転車でも行ける」というようなことを言っている。

われわれの父は物書きで、本を出したらしい。イオンモールの正面入り口(先日旅行で行った五所川原のエルムシティに造りが似ている)から入ると、イオンモールの本屋があり、グレーがかった白地に細かな黒い繊維が散りばめられたような装丁の父の新刊が、店を入ったところに平積みになっている。父はエッセイストらしく、これはエッセイ集らしい。私は販促のため何かをしなければいけないような感じがしているが、妹は、

「後書きで書かれたら嫌やから」

と拒否する。エッセイストはよくあとがきで家族への謝辞を書く。父もやはり、あとがきで家族のエピソードを入れるのがその作風であるが、それが嫌だということらしい。物書きの家族の生の声やなあ、と思う。

(その他、「答案」「赤と水色の猫」「愛という牢獄」と起床直後のメモにあったがなんだったかよく思い出せない)

 

夢2

どこか喫茶店で、あねたね夫妻(あるいはたねさまのみ?)とお子たちと、ジュースか何かを飲みながら話している。娘ちゃんは可愛い服を着ている。息子氏は「女の子6人にプロポーズをした」というような話を、面白おかしくしている。よく言うけれど子どもって本当に親とは別の人間なのだなあ、と感心する。

国道1号線を自転車で走っており、ずっとやってみたかった「自転車で走って東京まで行く」というのをできるかもしれない、と思うが、スケジュール的に難しいことはどこかで分かっている。母方親戚たちが乗った車と道路を並走している。国道1号線だが、拓けたところではなく、道は比較的狭くごみごみしている(枚方あたりのイメージ)。

国道沿いに熱帯魚などを売る店がある。叔母や母たちとそこを覗く。入口近くにアクアリウムが置かれている。「アクアリウムやって!」と感心しながらそれを見る。アクアリウムというが、よくある簡素な水槽を単に二つ重ねて生き物を入れただけのものである。

上の水槽には、透き通ったようなブルーのメダカが泳いでいる(※寝る前に歳時記で季語であるメダカの写真を見ていた)。私はそれを「熱帯魚」と言っている。「熱帯魚」だと自分を納得させようとする感じである。下の水槽には、小さな蟹が入っている。蟹は、人工的な水色をしている(※以前に友人が生成AIで出力した亀の甲羅からハサミが生えた奇怪な生き物を思わせる)。この水槽は電子レンジくらいの大きさで実際電子レンジにもなっており、アクアリウムを大事に扱わなくてはと思っていたはずだが、誤ってスイッチを入れてしまい、しばらくして水槽が沸騰し始めていることに気づいた。水がボコボコと煮え立っており、「あわわわわ、あわわわわ」と慌てる。親戚たちが私の慌てぶりに「何事」と驚く。私は慌てながらやっとのことでスイッチを切る。沸騰は収まったが生き物たちが茹だってしまったのではないかと思う。しかし見ると、幸い、生き物たちの様子に変化はないようだった。いや、正確には、直視するのが怖いため変化はないらしいということをちらりと見たに過ぎない。

そうしているうちに、下の水槽に入っていた水色の蟹が巨大化し、人間の顔面くらいの大きさとなり、かつ凶暴化する。蟹は暴れて水槽を飛び出してきて、私の顔に貼りついてくる。「うわあっ」と思い、ひき剥がしたいが、胴体を掴むと鋏で手を挟まれるのでないかと怖くて手を出せない。母が蟹を掴み、器用にむりやり二つ折にして水槽に投げ戻した。二つ折りになった蟹は、右の鋏と左の鋏を同じ方向に折り重ねて水槽の底でおとなしくなっている。やはり母はすごいと思う。

熱帯魚屋の前の道路は川になっている。そこに、浸かりながら歩いていく。叔母たちと一緒に、荷物を頭に載せズボンの裾をめくりあげてくるぶしまで浸かりながら歩く。昔に鴨川での魚放流つかみどりイベントに親戚で行ったことがあり、そのときのようである。私たちの後ろを少し年下の女性(友人?従妹?仕事関係の人?)が歩いており、彼女が何か言い、私は「ミミズは苦手?」と尋ねる。畑をやっているときにミミズが土からたくさん出てきたことを思い出す。足を上げると、めくりあげたピンクのズボンの裾に、裾の形に添って細い茶色のミミズが付着しており、私は「ギエエ!」と言いながらそれを掴み取って投げ捨てる(叔母が捨ててくれたようにも思える)。叔母は「こういうのはいややねえ」と言っている。

 

フロイト的には虫にたかられる夢は妊娠の観念に対応しているという説がある。フロイト説が合っているかどうかは別にして、この説を知っていてそれを利用して構成した夢という感じもする。二度寝の前に洗面所に行きふと、「自分は子をもたない人生である」ということを考え、そういう話をどこかに書こう、と考えていた。妊娠・出産を経験していない私には、それは自分の体験としては永遠に未知であり、子供の頃に考えたのと同じような「妊娠・出産とはどういうことだろう」ということをずっと考え続けることになるのだ、と思った。

友人の隠された姉の夢/犬の具合が悪い夢

(1)

 何人かで、クロマニヨンズのライブビデオを観ている。大きなトラックのようなセットの前で演奏している。昼間の野外のようだ。アンコールで、ヒロトマーシーがツインヴォーカルを取る曲が演奏される。マーシーのヴォーカル曲なんてすごく久しぶりだ。われわれは「うおっ」とどよめく。黒いダンススーツのような衣装も珍しい。二人が、おそらくアドリブで、ぴったり左右対称になるような姿勢を取る。われわれは感心して「本当に息が合ってるなあ、この二人は」と言い合う。

 

実家の片づけの手伝いに行く。引っ越しをするらしい(私は実家に住んでいるのかもう出ているのかよく分からない)。実家は昔の姿で薄暗く、一階の仏間の土間に面する側にピアノがある。ピアノの上の掃除を私は頼まれる。ピアノの上には埃が積もり何か物が置かれている。スツールに乗ってピアノの上を掃除していると、手伝いに来たのか別の用でやってきたのか、幼馴染である友人Aと友人Bも部屋にいる。友人Aはやはりスツールに乗っているのか私と同じ高さに立ち、ピアノの上を滑らせてそっと木片を手渡してくる。木片には、ささくれの凹凸の所為で読みづらいが、ボールペンで「タ--ケテ」とある。「助けて」というSOSだ、と理解する。

詳しい事情を聞きたいが、他の人には聞かせてはいけない話のようだ。周囲には私の家族と友人Bがいるので、私たちは小声でやりとりする。友人Aは、事情が書いてあるらしいノートを渡してくる。青と白に塗り分けられた表紙の、薄いA5のノート。開くと一見『カラマーゾフの兄弟』の読書会のノートのようであり、そこに書かれた文章を見て「Aってこんな言葉遣いをする人だっけ」と思う。ノートには、細かな字で、友人Aの家庭のこれまでの経緯が書かれている。それによると、実はAの家には、Aの上に、存在を隠されていた姉がいたという。姉は病気であるが、その姉の横暴に家族全員が服従させられ家庭は姉に支配されてめちゃめちゃになっているのだという。長い付き合いだがAが長女だと思っていたしそんな姉の存在は知らなかった。衝撃を受ける。ひどく怖ろしい思いになる。めちゃめちゃになったAの家の暗い空間が浮かび、木造の二階に巣を張る蜘蛛のような姉の姿が浮かび、その中にノートの文字が浮かんでいるように見える。ノートにはやや大きな字でマゾヒズムというよりニヒリズムと書かれている。今の状況を表す言葉らしい。支配に服従することをどこか愉しんでいるような段階ではもはやなく、諦めの段階であるという意味だろう。話を聴いている途中で、ノートを床に落としてしまう。ノートは開いた状態で落ち、ぎょっとして慌てて拾う。友人Bが近くにいたがすぐ拾ったので文字をきちんと読む時間はなかったとは思う。

 

私たちは引っ越しの荷物を運ぶ。運びながら友人Aと話すが、小声で詳しい話をするのは限界があり、周囲も不審そうな様子を見せ始める。離れの二階(祖父母の部屋だったが夢では祖父母はいない状態)の整理に行く。夫(親戚?)が奥の黒い卓袱台の前にいる。昼食ということでナポリタンスパゲティ(※父の好物)を出すが、ソースが真っ赤過ぎて、麺の一本一本が血にまみれているように見えて気持ちが悪い。友人Aを助けるために私はスケジュールを都合するが、その事情を夫には話せないため、夫は不信感を抱いた素振りを見せる。近くにいた父も、穏やかな様子ではあるが、疑われるのは当然のことだというような態度を見せる。私は「Aの家庭の事情のことなので詳しくは言えない」ということを説明しようかと悩むが、一階の押し入れの前で、隠し事をしている私の態度をめぐり夫と言い争いになる。私が何か曖昧なことを言ったのに対して、「だから嫌いやねん!」と言われてしまう。(ここで足が痺れて目が醒める)

 

(2)

「くまたん」みたいな名前の男の子のキャラがおり、ろくでもないやつだがモテるという設定。切り株のような舞台の上でくまたんが動いており、まめ子もそれに懐いている。まめ子と一緒にくまたんを観ていたはずが、いつの間にか、まめ子が(自分が?)くまたんということになっている。くまたんは、平たい頭から短いネギのようなものがたくさん生えているキャラ。

 

昔の実家の二階にいる、妹と両親もいる(家族は今の年齢の感じ)。部屋には蒲団が雑然と敷かれている。

下階で、まめ子の調子が悪いというようなことを妹たちが言っている。私はこの後の予定に気を取られていて、あまり気にしていない。何かを読まねばならない予定がある。妹が薬を買ったらしいので、それを飲めば治るのだろうと思っている。

妹とまめ子が二階に上がってくる。まめ子は何度か嘔吐している。いずれも蒲団ではないところで吐いてくれて助かったが、どうやらこれは本当に具合が悪いようだと思う。まめ子の背中をさすってやると、手触りがやや硬いようで違和感を覚える。今日は休日なので獣医さんは休みだ。妹は、誰か詳しい人に電話をして相談してみると言う。

しばらく皆で薬を与えたりさすってやったりしながらまめ子を介抱する。私が自分の蒲団に寝転がると、まめ子が覆いかぶさるように上に乗ってきた。普段そんなことは滅多にしないので、「来てくれた!」と嬉しい思いだったが、その状態でまめ子を撫でていると、段々まめ子の身体が板のように感じられ、それが不自然に反っている感じがする。見た目にはそんな変な感じはしないが、首が一方向に反っているようにも思われ、これは本当に危ない状態なのでないかと思う(※2013年の誕生日にまめ子が梗塞を起こしたときの記憶に似ている)。まめ子は私の上に俯せる状態で私の頭の横に頭部を垂れていたが、その姿勢のまま私の首の横に嘔吐した。蒲団が汚れ、髪も少し汚れたかもしれず、母が「あれあれ、おーおー」と言いながら雑巾を持ってくるが、私は笑って「大丈夫、大丈夫」とまめ子を撫でる。母と「今日獣医さんが開いてたらなあ」というようなことを言う。人間でも、たまたまその日病院が開いていなかったがために死ぬことになってしまった人はいるだろう。死という、一回きりの取り返しのつかないことが偶然性によって決まってしまう、お別れはいつも突然だ、と思う。

私の上にぺったりと俯せる硬いまめ子を撫でていると、犬の形でなく、8歳くらいの女の子の形になっている。すとんとした白い服を着て、まっすぐな髪を肩の下まで伸ばした女の子(人間ではなく人形のような造形だが人間と感じている)。それを見て、「まめ子は私の娘のようなものだったのか」と思う。「絶対に自分より先にいなくなってしまうと分かっている娘を育てたと思えば」と考える。そんな人は病棟にたくさんいた。犬でなく人間だっただけによりつらかっただろう。

いつの間にか、まめ子は押し入れの上段に登っている。薬の箱を自分で開けて飲んでいる。黄色い錠剤で糖錠らしい。しかし、妹の言うところによると、糖分は今の症状にはよくないと分かり、まめ子が薬をこぼした隙にこちらに転がってきた5、6粒を慌てて回収する。全部は回収できなかったができるだけでもと思う。昔は、こういうときはSさん(※昔実際に近所に住んでいて犬飼いの先輩であった夫妻)に相談していたなあ、と思う。母・妹と「Sさんが生きてはったらなあ」と言い合う(Sさん夫妻は比較的最近亡くなった。夢の中の舞台はSさんが生きていた頃の実家だが、Sさんたちはもういないことになっている)。そこへ、生協さんの配達がやってくる。袋から、頼んだものが続々出てくる。赤い中華風デザインの蓋の何かがあり、「こんなの頼んだなあ」と思っている。アルミ容器に入った蕎麦とうどんがひとつずつある。蕎麦は緑がかった細い麺である。蓋に大きな大葉が二枚も添えられているのが売りらしい。赤い蓋の何かを今日の昼食にしようと思っていたが、こちらを大葉が傷まないうちに早く食べたほうがよさそうだ。ペグレス(仮)に「今日一人でこれ食べてええ?」と何度も確認している。

 

感想:犬の病気の夢・犬の死の夢は悲しいが、目覚めて「犬の死はもう乗り越えたことだ」と思ってホッとするための夢という感じもする。